[感情表現]stylesense029
- あおひこ
- 2022年7月30日
- 読了時間: 3分
行動様式(カラダ)、思考回路(アタマ)とくれば、残るは感情表現(ココロ)のスタイルのお話。
3つのバランスでいえば、ワタシにとって最も欠けている(薄い)のが、この胸の領域である。故に50歳を過ぎて胸の病気(循環器系)に見舞われ、修復を図る過程で成長に向けての課題を与えられた。
感情表現は、分かりやすくいえば感情の起伏、つまり物事をどう受け止めて、気持ちをどう表現するかということであり、それによって培われるのが感性だともいえる。
ワタシの両親は、昭和一桁生まれの戦中派で時流に乗ったモボ・モガであった。20代半ばで見合いして結婚した二人の共通点は、そこにあったようだ。しかも、同じ福岡県大牟田市(県最南端)の人間なのでワサもん(熊本弁:新し物好き)でもあった。
父はお寺の長男に生まれるも、後を継ぐのが嫌で地元の信用金庫に勤めた。母は幼くして母が亡くなり、父の残した鞄洋品店を切り盛りしながら義弟たちの面倒も見ていた。商売しながら自由になるお金もあった母は、父が持って帰って来た給料袋の中を見て驚愕したそうだ。
物心つく頃には家具調ステレオに洋楽レコード、カラーテレビにマイカー(マツダのキャロル360)と経済力からすれば、優先順位が明らかに新しいモノに偏っていた。
もう一つワタシの感性を決定づけたのが、小さい頃から着せられた洋服の色である。3歳上の兄との間にはどうやらこの世に生まれて来れなかった女の子がいたらしい。小さい頃はとても可愛らしかった次男坊を甘やかして育て、暖色系の色合いも含めてカラフルな色合いの服を着せていたようだ。
さらに決定的な要素が、三池炭鉱で栄えた後に化学系の工場が立ち並び、大気と河川に公害汚染が蔓延していたことにある。何故それが感性に結びつくのか…。市内を流れる大牟田川は七色のメタルカラー、不純物を多く含んだ空に沈む夕陽は血のように赤いのだ。そのことをあらためて認識したのは、「マドモア ゼルモーツァルト」で有名なマンガ家『福山庸治』の描くシニカルなストーリーのカラーリングを見たときのこと。とても近しいもの感じ、調べると同郷だった。
まぁ一言でいえば、派手好きの“ワサもん”なのだが、その感性とは裏腹に情緒の起伏そのものは激しくなく、感情表現そのものが豊かとはいえない。なぜそうなったのか?
それは幼少期にまで遡る。小学校に上がる前の年中さんまでは、なにかに夢中になると時間が経つのも忘れ、自分の世界に没頭していた。ところが年長さんで転園した幼稚園では、時代の要請に沿った学校予備校の様相を呈していて、カリキュラムに沿う全員の動きに合わせた進行は、すでに社会生活の訓練の場であった。
そこで自分の内に流れる時間と、社会で求められる時間の流れのギャップを否応なく思い知ることになる。次第に自分の感情を表すタイミングを失い、自分の思いをうまく伝えられなくなる中、他人から見るとあまり喜ばない、怒らない、悲しまないヒトとして見られるようになった。
だからこそ、人生の終盤に差し掛かって、自分の思いを伝えようと新聞を出したり、こうしてブログにエッセイを綴っている。
今回も読んでくれてありがとう。
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ではまた(^.^)b

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