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[時代の変遷]stylesense017

更新日:2022年7月10日

昨日は在宅勤務で経理仕事EXCELをしながら、いつものようにラジオNHKFMを聞いていた。

第一報は昼前に流れた「安倍元総理が撃たれた」…一瞬耳を疑った。なんのことを言っているんだろう…TVを点けると、その後一日中流されることになる映像が映し出された。

その時の心境の変化は内容こそ違え、あの時と同じものだった。

11年前の3月、山中で受けていた研修を終えて麓に下り、小田原の駅のホームで見た津波が押し寄せる映像を観たとき。

さらに思い起こせば…’86.4.26、’95.1.17、’95.3.20、’01.9.11といった出来事に遭遇したときも感じたことだ。

最初目にしている映像がフィクションのようにしか思えず、何度も繰り返し見てアナウンサーの声を聴いている内、ようやく現実の出来事であることが腑に落ちて強い衝撃を覚える、といった自らの心境の変化をスローモーションで観察しているような感じだ。

しかも、今回は災害やテロではなく、個人(元総理)の暗殺という次元のもので、コロナ禍やウクライナ戦争を通じて散々言われてきた[戦時下]というものを改めて痛感する出来事である。

おそらく時代を経て、後から今の時期を振り返ると、時代の変遷期ということになるのだろう。

ひと昔前だったら(これは昭和時代の意識だな)、10年に一回程度の大事件や異常気象、大規模震災が数年毎に起きて、この3年間に至っては畳みかけるように次々と予期せぬ重大ニュースが飛び込んでくる。

それに呼応するように世の中の反応、つまり当時者以外の大多数の人々の意識からは、その衝撃と記憶が色褪せていくスピードも増していく。

個人の生活にも明らかな変化は生じていて、漠然とした不安や恐れとそれに伴う焦りを抱きながらも、特に何かを大きく変えるわけでもなく、一見平穏に見える毎日が続いていく。

この個人と社会の乖離は、他の国でも生じてはいるが、日本においては政治・経済・文化の四半世紀の変遷を見ると、甚だしいものがある(歴史的に見れば日本民族の特徴とも言えるが)。

意識下にある個人の精神生活と日常意識している社会生活、このエッセイ的には[真夜中と昼間][個人意識と個体意識]という括りは、究極的には[個と全体]における乖離ということになる。

ちょっと量子力学的な、哲学的な命題だが次の回で取り上げてみよう。


10年前に個人新聞『stylesense』

をほぼ月一で発信していたが、第6号(3月3日)を出して経済的にも気力の上でも折れかけていた時期に東北大震災そしてフクイチ事故が起きた。創刊当時、知人の会社経営者から「森くん、情報をタダで取れる今の時代にはスポンサーを付けないと継続は難しいよ。そのためには原発の話を取り上げるのは厳しいなぁ」という様な進言をされた。事故の報を受け、個人新聞を立ち上げた初心に戻って奮起して出し続けたことを思い出した。今度は昨日の事件を受けて、自分がこのエッセイをブログで始めた衝動の根源を見た気がした。

今回も読んでくれてありがとう。

コメントや質問を頂けるとなお嬉しい。

ではまた(^.^)b


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