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[畏れ敬う心]stylesense013

更新日:2022年7月1日

SOCの3つの感覚の中で最も重要な[有意味感]に関係するのが、三つ目の心“畏敬の念”である。

畏れ敬う対象として、すぐに思い浮かぶのは“神”だろう。たとえ宗教心がなくても、“大いなる自然”“母なる地球”“お天道様”と言い換えれば、なんとなくイメージは湧くのではないだろうか。

ココロが育っていく過程において、憧れ仰ぎ見る身近な存在や清々しい神聖な場、言葉には表せない繋がりなどを感じたことがないだろうか。

ワタシにとっては13歳の時に亡くなった父方の祖父(日蓮宗のお上人)であり、小学校1・2年生の担任だった恩師であり、10歳まで住んでいた寺の敷地内の納骨堂であり、その傍を流れる川などがそれに当たる。

畏れ敬う心が育まれていれば、個体意識を紐解くまでもなく、試練を受けた時に少なくとも“これには何か意味があるに違いない”との思いを抱き、個人意識を超えた計らいや導きを思い描くことはできる。

また、この世の価値観や自分の信念に固執するあまり、ワタシや大切な人の重要な局面において道を外れそうになって、足元がグラつき崩れ落ちてしまいそうな感覚に襲われることもある。そんな時も、気づかせてくれた存在に畏敬の念を抱かずにはいられない。

ストレスを糧とするためには、新たな物事や人との出会いを求める心と、そこでもたらされる試練を受け止める心が必要だ。

さて、今を生きる極意として“ワタシを中心ではなく脇に置くこと”“しっかりとワタシを中心に据えること”をサラリと表現したが、それぞれの意味合いをもう少し詳しく述べてみよう。

日本にはアマテラスや日輪のシンボルとして⊙があり、一方でキリスト教には✞がある。この2つの象形、実は視点が異なるだけで同じ立体的なものを表している。星好きの人には知られている[中性子星]のイメージ。

十字架の縦の線はワタシ(自我)を表しているが、それを上から見たのが⊙の中心点である。その円周部を横から見たのが十字架の横の線で、無私(利他)を表している。

感覚としては、“ワタシを中心”が注意力が高まる状態であり、“ワタシが脇(周囲)”が集中力が高い状態である。ただし、集中時に意識は薄れていくので、感覚として掴むには目を瞑って集中する訓練が必要となる。

               つづく

今回も読んでくれてありがとう。

コメントや質問を頂けるとなお嬉しい。

ではまた(^.^)b


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